手放さなくていい|50代が気づいた、人間観察という癖の正体
結構、人の考えていることを読もうとするマインドが働く性格だなあと、つくづく思う。
人の表情や行動を、つい読もうとしてしまう
自分の発言でも、相手がどんな表情になるか、それがプラスになるかどうか、つい考えてしまう。
だから、そこに意味を求めてしまう。
挨拶ひとつでも、そうだ。名前を呼ばれたか、ただの「おはようございます」だったか。
目を見て挨拶されたか、なんとなく流されたか。
それだけで、「自分はこの人にとってどの程度の存在なんだろう」と、勝手に読み取ろうとしてしまう。
脳のリソースを、それなりに使っているんだろうとは思う。
ただ、それほど苦ではない。
今朝の大阪のおばちゃんたちの会話エネルギーが、考えずに自動的に湧いて出てくるのと同じように、こっちも気づけば勝手にそうしている感覚に近い。
朝食会場で、ウェイターの所作まで観察してしまっていた
今朝も、そうだった。
挨拶がしっかりできているなあ、とか。食べ終わった皿は下げられているのに、ナプキンは新しいのを置いてくれていない、とか。食べている途中で皿を下げようとして、こっちのことを考えてないなあ、業務優先でお客様ファーストじゃないなあ、とか。
もちろん逆もある。気配りが行き届いていて、気持ちよく食べられることに、素直に感動させられることもある。
日本人は特にそういう人種だと思うし、それができる人は素直にすごいと思う。
ジムでも、結局同じことをしている
トレーニングをしていても、同じことをしている。
重すぎる重量を一生懸命扱っている同年代を見ると、「俺もあんなふうに見えているのかな」と思う。
逆に、軽い重量でやっている初心者を見ると、「50代はこれで精一杯だと思われてるんだろうな」と、むしろ発奮したりする。
頑張っている女性を見れば「ダイエット中なのかな」、体型がなかなか変わらない人を見れば「食べすぎてるんだろうな」。
それぞれに、勝手な人間模様を作ってしまう。
職業柄なのかもしれない。
実際、選手が求めていることを予測して、気づいて伝えることで、貢献できている部分は大きい。
長年、見ることで培ってきた能力だと言ってもいい。
自分も同じことをしていると気づいてから、少し受け止められるようになった
でも、同じことを自分もしている。
面倒で挨拶を省くこともある。
名前がすぐに出てこなくて、とりあえず「おはよう」とだけ言うこともある。
真剣な顔をしていたり、腕を組んでいたり、笑顔じゃなかったりするのも、大抵はただの気分で、深い意味なんてない。
自分がそうだと気づいてから、他人にも同じことが言えると思えるようになった。
昔は「なんで気づかないんだ」と腹を立てていたことも、今は「そういう時もある、それが人間だ」と受け止められるようになった。
それでも、観察する習慣そのものは変わらない
目がいってしまう、気づいてしまう、考えてしまう。
この習慣自体は、変わらない。
結局、好かれたいわけじゃないのだと思う。
嫌われさえしなければ、それでいい。
自分のペースで生活できる、余計な波風を立てない環境を確保しておきたい——たぶん、そのマインドが、この観察癖をずっと続けさせているんだと思う。
選手を見る目も、朝食会場でウェイターを見る目も、同じ一つの癖から来ているんだとしたら、無理に手放す必要もない気がしている。
