満足感の質が変わった日|50代が気づいた、本物の充実感の正体
トレーニングを始める前、決まってこう思う。
今日はやめておこうか。
体が重い。
時間もない。
別に今日じゃなくてもいい。
そう言い訳を並べながら、それでも着替える。
ウォームアップを始めると、次の葛藤が来る。
今日は重さを軽くしようか。
種目を少し削ってもいいか。
小さな交渉を自分の中で繰り返しながら、 気づいたらいつも通りやっている。
その後のランニングでも同じだ。
走り出してしばらくは体がおかしい気がする。
足が重い。
呼吸が合わない。
やっぱりやめればよかったか。
でも終わった後は、毎回同じだ。
やって良かった。
この感情の上下は、何年やっても完全にはなくならない。
よく考えたら、葛藤はひとつじゃない。
まず「今日やるかやめるか」がある。
着替えながら「重さを軽くしようか」が来る。
始めたら「種目を削ろうか」が来る。
ランニングでは「今日は短くしていいか」が来る。
小さな葛藤が積み重なって、 やる前の重たい感覚になっているのだと気づいた。
朝起きる時も同じだ。
睡眠の割に寝起きがイマイチな朝がある。
もう少し寝た方がいいかと思う。
でも意外といつも通り起きると、そうでもない。
朝の時間を使った方が、充実感が高かった、ということが多い。
小さな葛藤は、何かを行う上で常にある。
それを経験値と判断力でプラスに変えられるようになること。
それが50代の強みだと思う。
ただ最近、気づいたことがある。
この繰り返しの中に、50代の充実感の本質が隠れていた。
「頑張った自分へのご褒美」が、翌朝の自分を削っていた
少し前まで、夜の過ごし方はこうだった。
仕事を終えて帰宅する。
疲れている。
でも「寝たら次の朝が来てしまう」という感覚があった。
頑張ったんだから、自分の時間を確保しなきゃ。
動画を見て、ゲームをして、気づいたら深夜になっている。
それが「ご褒美」だと思っていた。
翌朝、目覚めが悪い。頭が重い。
時間に追われながら準備して、また仕事が始まる。
その繰り返しだった。
転機は、追い詰められた時だった。
通訳の仕事で、どうにか準備や勉強の時間を作らなければならなかった。
夜は疲れて集中できない。
だったら朝しかない。
そう気づいて、夜のダラダラをやめた。
早く寝て、早く起きる。
ただそれだけのことだった。
→ 睡眠を削るのが美徳だと思っていた|50代が気づいた本当の回復
満足感の「中身」が変わった
睡眠を確保して、朝の時間が生まれた。
トレーニングをする。汗を流す。
体に心地よい張り感が残る。
思考の回転が上がる。
アイデアが浮かびやすくなる。
MacBookを開いて、ゆっくりコーヒーを飲む。
時間に追われていない。
自分のペースで一日が始まる。
「時間に支配されるのではなく、時間をコントロールしている」
この感覚が、以前のご褒美とは全く違った。
動画やゲームで得ていた満足感は、一時的だった。
翌朝の自分を削る代わりに手に入れる快楽だった。
今の満足感は違う。
トレーニングの張り感も、朝の思考の切れも、 やることを終わらせた達成感も、全部が翌日の自分に繋がっている。
ストレス発散の矛先が、自分を削るものから、自分を育てるものに変わった。
これはトレーニングだけじゃない
これはトレーニングだけじゃない。
食事も、時間の使い方も、同じパターンが繰り返される。
やる前の感情に従うか、やった後の自分を想像して動くか。
その選択を、少しずつ正しくできるようになってきた。
週の始まりに、全部終わらせる
先日、出張前日にやることが重なった。
粗大ゴミを捨てに行き、タイヤ交換をして、子供を送り届けた。
やることが多くて、トレーニングは後回しになりそうだった。
でもやった。
出張中はトレーニングできない。
体に程よい張り感がないと、仕事していても疲れやすくなる。
それを知っているから、動けた。
全部終わらせて床についた夜の充実感は、 夜更かしして動画を見ていた頃とは全く違った。
朝にやることを終わらせる感覚の、一週間バージョンだ。
本物の充実感は、翌日の自分に繋がっている
出張先でも、ホテルの部屋でいつもと同じようにMacBookを開く。
筋肉痛がある。
それでも朝5時台に起きた。
コーヒーが旨い。
思考が動いている。
満足感の質が変わるとは、快楽の種類が変わることだと気づいた。
一時的に気持ちよくなる快楽から、 翌日の自分を豊かにする充実感へ。
その切り替えに、特別な意志力はいらなかった。
ただ、経験が積み重なって、 「やった後の自分」を想像できるようになっただけだ。
今日も、やって良かった。

