奢るなら、喜んでくれる人に|50代が気づいた、有限な資源の使い道
気安く「奢ってください」と言う部下ほど、誘いたくなくなった。
若い部下と、直属の部下――同じ「奢り」で、幸福度がまるで違った
先日、部署は違えど仕事で関わる若い子たちを、労おうと思って食事に連れて行った。
普段あまりそういう恩恵を受けていない様子だったから、せっかくなら自分の時間をそこに使いたいと思ったのだ。
以前、色々と奢ってもらう機会の多い直属の部下を連れて行ったこともある。
情報収集や仕事の状況を知る収穫はあった。
だが、それほどの幸福感はなかった。
むしろ若い子たちの方が、素直に喜んでくれたし、悩みやその人となりを知れて、費用対効果が高かった気がする。
くれくれ君は誘いたくない。選んでいるのは、謙虚に頑張ってる人だった
気安く「奢ってください」とねだってくる部下ほど、無意識に避けてしまう自覚がある。
天邪鬼だと思われるかもしれないが、人の力や人脈を都合よく利用して生きていくタイプとは、根本的に合わないのだと思う。
逆に、大したことないことで悩んでいる姿を見ると、自分の若い頃を見ているようで、放っておけなくなる。
人が見えていないところで、その人なりに最大限頑張っている。
評価されづらい分、労ってあげたい。
そういう縁の下の力持ちにこそ、自分の時間を使いたくなる。
本当にすごいのは、”どうぞ君”――見返りを求めずに与えられる人
一方で、見返りなど考えずに無償で与えられる人は、本当にすごいと思う。
それだけの資産や懐の広さがあるということだし、その姿勢自体が、周りからポジティブなものを引き寄せていく。
能力的に強いものを持っている、魅力のある人なのだと感じる。
寄付をするような人、大きく与えられる人は、きっと自分たちの見えないところで、すでに幸福感を満たしている。
巡り巡ってその見返りが返ってくる、複利の効いた投資を人生でしているのだろう。
自分はまだ、そこまでは届いていない。
誰かを優先することは、30代の教訓と矛盾しないのか
ここで、ふと引っかかる。
30代の頃、ある選手を一人優先し続けたことで、周りとの信頼のパワーバランスを崩した失敗があった。
あの時の教訓は、はっきりしている。
誰か一人を特別扱いすれば、見えないところで歪みが生まれる、というものだ。
今回のように、奢る相手をあえて選ぶことも、突き詰めれば誰かを優先する行為には違いない。
同じ「選ぶ」という行為の中に、あの失敗と同じ危うさが潜んでいないだろうか――そう考えてしまう自分がいる。
だから今は、奢る時は基本的に複数人を誘うようにしている。
個人ではなく集団になると、特別扱いというより、その集団に対しての行為になる。
過去の失敗のような、特定の一人への偏りとは、見え方そのものが変わってくる。
全体で見れば、気にならない――パワーバランスの物差しが変わった
考えてみると、あの人に奢ってもらっている、もらっていない、という局所的なパワーバランスは確かにある。
だが全体で見れば、すでに美味しい思いをしている割合が高い人が選ばれなくても、それほど気にならないものだと思う。
よっぽど自分と食事したいと思ってくれる人は別で、そういう人はむしろこちらに好意的なはずだ。
一人だけを見て偏るか、全体の分布で見るか。
同じ「優先」でも、見ている範囲が違っていた。
50代になって強くなった、この物差し――時間・資産・チャンスは有限だから
この見方の変化には、視点だけでなく、年齢による事情も関わっている気がする。
50代になって、時間も、資産も、チャンスも、有限だという感覚が強くなった。
だからこそ、誰に使うかを費用対効果で測る癖が、以前よりはっきりしてきたのだと思う。
謙虚に頑張っている人を応援したい気持ちと、限られた資源を効率よく使いたい気持ち。
その両方が、今の自分の中にある。
どうぞ君のように見返りなく与えられる境地には、まだ届いていない。
それでも、いつか自分もそうなれたらいいと思いながら、この50代を過ごしている。
