幸福のかけらは、そこらじゅうに落ちている|50代が朝食会場で気づいた、感度という物差し
出張先の宿で、朝食を食べた。
その場で焼いてもらうオムレツ。
サラダ、フレンチトースト、コーンスープ、厚切りのベーコン。
マンゴーの入ったヨーグルト。
最後にコーヒーを一杯。
11階の会場だった。
窓の外の景色を眺めながら、ゆっくり時間をかけて食べた。
朝からこういう時間を過ごせることに、素直に幸せを感じた。
普段の朝は、トースト一枚とコーヒーで終わる
普段の朝食は、だいたいトースト一枚とコーヒーだ。
そこまで慌ただしいわけではない。
ただ、朝の時間を朝食に配分してこなかった、というのが正確なところだ。
必要最低限で済ませて、その分を別のことに使ってきた。
それで足りているとも思っている。
腹は満たされるし、一日は問題なく始まる。
不満があるわけではない。
ただ、今朝と比べてしまうと、同じ「朝食を食べる」という行為なのに、体験の中身がまるで違うことに気づく。
栄養の話ではない。
かけた時間と、その時間の質の話だ。
食べ終えてから、この朝食に自分でいくら払うかと考えてみた。
答えは、払う価値がある、だった。
払っても、幸福に変わらないものがある
そう思った時に、逆のことも浮かんだ。
日用品を買う時、幸福を感じることはほとんどない。
必要だから買う。
切れたから補充する。
それだけだ。
税金を払う時にいたっては、満足感どころか何も残らない。
同じ「お金を払う」という行為でも、幸福に変わるものと、変わらないものがある。
今朝の朝食は、はっきり前者だった。
そう考えると、稼ぐという行為も、突き詰めれば幸福と交換するためにあるのだと思う。
40代は恐怖と戦うように稼いでいた。
今は教育費のゴールも見えてきて、何と交換するかを探す時期に入ってきた。
それも50代という節目なのかもしれない。
問題は、交換の方法を自分がどれだけ知っているかだ。
買うまでが、いちばん楽しかった
ただ、一度は幸福に変わったのに、後から反転したものもある。
以前、予算を少し超える車を買った。
当時の家計にとっては結構な出費で、人生で最後の高額な買い物にすると決めて、妻の了承をもらって手に入れた。
買うまでが、いちばん楽しかった。
調べて、迷って、決めるまでの時間。
あの高揚感は本物だった。
手に入れた直後も良かった。
だが、そのあとすぐに少し後悔した。
日常で使ううちに、それは道具になっていく。
移動する手段としての認識が強くなるほど、あれだけ膨らんでいた喜びが、余裕のない中で使った金額の方に置き換わっていった。
幸福は、思っているより簡単に罪悪感へ変換される。
10年以上乗った今は、その罪悪感も薄まってきた。
長く使ったぶん元が取れてきたからだ。
ただそれは、幸福が戻ってきたのとは少し違う気がしている。
今朝の朝食が特別に感じられたのも、たぶん裏返しの理由だ。
普段やらないことをやったから、価値だけがはっきり見えた。
気づかなければ、得ることもできない
では明日から家でパンケーキを焼くのか、と言われると、たぶんやらない。
朝にそこまでの手間をかける気には、今はまだならない。
休みの日に目玉焼きを焼くくらいはできるかもしれないが、それも老後の楽しみにとっておいていい気がしている。
そもそも、毎日やってしまえば特別ではなくなる。
たまにやるから価値が見えるのなら、今の頻度でちょうどいいのかもしれない。
それでも、今朝の時間には意味があったと思う。
幸福のかけらは、そこらじゅうに散らばっている。
でも、それが幸福だと経験したことがなければ、落ちていても気づかない。
失ってから気づく、という話はよく聞く。
だが本当に多いのは、気づかないまま、得ることすらできなかった幸福の方ではないだろうか。
拾えるかけらを増やすには、感度を上げるしかない。
そのためには、一度その質を経験してみるしかない。
50代のうちに、その感度を上げておく。
今すぐ全部を拾い集めなくてもいい。
時間ができた頃に、拾い方を知っている自分でいられれば、その先の暮らしは違ってくるはずだ。
