たわいもない会話が苦手だった|50代が気づいた、余白という名の情報源
また、やってしまった。
雑談のつもりが、いつの間にか愚痴になっていた。
会話に価値を求めていた
若い頃から、会話には意味が必要だと思っていた。
意味のない話をすることは、エネルギーの無駄だと感じていた。
必要な時に、必要な話をする。
それが自分のスタイルだった。
でも裏を返せば、たわいもない会話を「価値のないもの」として切り捨てていたのかもしれない。
50代になって、その感覚が強くなった。
職場では年齢差が広がり、同世代が減った。
老害と思われたくない。
その意識が加わって、何を話せばいいかわからなくなっていた。
そんな中で、気軽な雑談がますます苦手になっていった。
またやってしまった
無言になると、何か話さなければと焦る。
天気の話をする。
でも続かない。
気づいたら仕事の話になっている。
しかも愚痴になっている。
相手は「そうですね」と頷くしかない。
これは雑談じゃない。
これは、自分が話したいことを話しているだけだ。
会話に生産性を求める癖が、場の空気を重くしていた。
変わらない現実に文句を言っても何も変わらない。
それはわかっている。
でも口が動いてしまう。
相手が本当に求めていたのは、仕事以外の話、笑える話、今日あった小さな出来事——そういうたわいもない時間だったのかもしれない。
では自分は、その場に何を持ってきていたのだろう。
うまくいった時の共通点
逆に、会話がうまくいった時のことを思い返してみた。
相手の話を引き出していた。
自分のことを喋るのではなく、相手に質問して、相手が話す時間を作っていた。
すると不思議なことが起きた。
相手が話し終えた後、「そちらはどうですか?」と聞いてくれた。
自然に会話のキャッチボールが生まれた。
聞くことが、話すことより先だった。
ブログが教えてくれたこと
ブログを書き始めてから、言語化の力が少しずつ上がってきた。
日常の一場面を切り取って、言葉にする練習を続けている。
語彙が増えた。
表現の幅が広がってきた。
変化は言葉だけじゃなかった。
今日の自分の状態を意識するようになった。
「今日の気分はどうだろう」と朝に思えるようになった。
そして気づいたら、自分から笑顔で挨拶するようになっていた。
言葉より先に、表情と態度が変わっていた。
たわいもない会話の入り口は、実はそこにあったのかもしれない。
余白という名の情報源
たわいもない会話には、価値がないと思っていた。
でも違った。
相手が自由に話せる余白を作ることで、自分が知ろうとしていなかった話題が飛び込んでくる。
予想もしなかった情報、感覚、視点——それが雑談の中に混ざっている。
知ろうとしていない話題から、自分が欲しい情報が得られる。
たわいもない会話は、余白という名の情報源だった。
今日も同僚と話す機会がある。
今度は愚痴を言わない。
まず聞く。
余白を作る。
その先に何があるか、少し楽しみになってきた。
