突っ走る50代に必要なのは、羅針盤より灯台だった
家族に言われた。
「やりすぎじゃない?」
「頬がこけてきてるよ」
「何かに取り憑かれてるみたい」
体脂肪を落とす目標を立てて、食事を選び、トレーニングを積み、時間の使い方を変えた。
自分では確信を持って動いていた。
だから最初、こう思った。
自分のためにやってることだから、理解されなくてもしょうがない。
でもその直後、もう一人の自分がこう言った。
…これ、宗教にハマっていく人のマインドと同じじゃないか。
実は少し前、職場の同僚にも言われていた。
「片岡鶴太郎みたいになってきてるよ」
皮肉の混じった言葉だった。
でも俺はポジティブに受け取った。
見た目が変わるくらいの成果が出ているということだから。
でも同じタイミングで、家族にも同じ方向の言葉が来た。
その時初めて、「あ、行き過ぎたかもしれない」と感じた。
→ 老いは止められない。でも進行速度は変えられる|50代が気づいたコントロールの思想
振り返れば、思い当たることがあった。
2ヶ月で体重が最大8kg落ちていた。
朝、フラフラすることがあった。
仕事量が増えてカロリー消費が上がっていたのに、食事量はそのままだった。
目標に向かって突っ走っていた。
それは本当だった。
でも気づかないうちに、体は限界に近づいていた。
「突っ走る」という感覚が、久しぶりに戻ってきている。
アメリカの大学に行くと決めたら行く。
苦手な英語も、得意じゃないコミュニケーションも、必要ならやる。
若い頃はそうやって目標に向かって動いてきた。
あの頃と今、一つだけ違うことがある。
今は、やらされてる感がない。
トレーニングは、仕事としてではなく「好きな自分になるため」にやっている。ブログは副業として始めたはずが、いつの間にか自分を整える時間になっていた。
実は小学校低学年の頃、物語を書くのが好きだった。
作文は苦手だったのに、自分で考えた話を書くことは楽しかった。
あの感覚が、50代になって戻ってきた気がしている。
思考が言葉になる瞬間の発見。
自分でも気づいていなかったことが、書くことで見えてくる。
やりたいことが見つかった時、人は自然と突っ走り始める。
でも突っ走る時こそ、灯台が必要だ。
航海に羅針盤は必要だ。
でも羅針盤だけでは、今自分がどこにいるかはわからない。
帰れる場所を、光で示してくれる存在が必要なのだ。
家族は、俺にとってその灯台だった。
仕事の話はほとんどしない。
でも家族は、俺の様子や言動から「何かある」と感じ取る。
そして全然関係ない会話の中で、ふと気づかせてくれる。
あ、俺、突っ走りすぎてたな。
言葉で説明されるわけじゃない。
気づかされるのだ。
家族に言われた後、俺は食事を増やした。
控えていた洋菓子も、パンも、また食べ始めた。
意図的にかけていた制限を、少し緩めた。
ストイックにやり続けるために、あえて制限をかけることがある。
でも「緩めていい」と思えたのは、家族の言葉があったからだ。
考えてみれば、灯台は家族だけじゃない。
憎たらしい同僚の皮肉な一言でさえ、気づきをくれることがある。
大事なのは、その言葉をどう受け取るかだ。
若い頃の俺は、言葉の食べず嫌いだった。
気に入らない言葉は、最初から受け取らなかった。
でも50代になった今は違う。
まず一度、口に入れてみる。
咀嚼する。
まずければ吐き出せばいい。
腐っていればすぐにわかる。
本当に美味しいものだけを、自分の中に残せばいい。
言葉を咀嚼できるのが、50代という年代だと思う。
歴戦の経験が、舌を育てた。
周りに生かされている。
そう思えた時、航海の無事は保障される。
家族という大きな灯台。
憎たらしい同僚の皮肉。
何気ない会話の中の一言。
それら全てが、自分の現在地を教えてくれる光だ。
その光をどう受け取るか。
どう咀嚼して、自分の選択に変えるか。
それが、50代という年代の強みだと思う。
モヤモヤは、答えが出なくて晴れるんじゃない。
自分が今どこにいるか、わかった瞬間に晴れる。
今日も灯台の光が見えている。
だから俺は、また前を向いて走れる。

