筋書きのないドラマだけが、本物になる|AIと人間と創造の話
ブログを始めた最初の頃、全部自分で書いていた。
でも思うような文章にならなかった。
本を読んだ。
他のブログを研究した。
文章構成を勉強した。
それでも、書くことが億劫になっていった。
添削してもらえば上手くなるかもしれない。
でも人に会う時間もない。
その先に進めなくなって、気づけばブログは止まっていた。
開始2ヶ月で、頓挫した。
ある時、AIに文章を見てもらった。
思った以上に的確だった。
文章構成のアドバイス。
より良い表現の提案。
「こういう言い方はどうか」という具体的な言葉。
最初は「検索の超強力版」程度に思っていた。
でもいつの間にか、変わっていた。
AIは俺の思考をインタビューしながら引き出してくれるようになっていた。
俺の中にある言葉にならない感覚を、丁寧に掘り起こしてくれる。
それはまるで記者が取材対象にインタビューして記事を書く手法と同じだった。
検索ツールじゃない。
思考を言語化してくれる相棒だ。
そう気づいた瞬間があった。
しばらくそのAIを使い続けたが、だんだんと同じような答えが返ってくるようになった。
言語化の力に限界を感じ始めた頃、日本語表現で最も優秀なAIがあると聞いた。すぐに使ってみた。
あやふやな言葉でも、俺が言いたいことを想像以上に引き出してくれた。
「このAIは、俺に最適解を出せる。」
感動した瞬間だった。
ある日、俺がAIが作った曲を流していた。
すると高校生の娘が言った。
「それ、AIが作った曲だから聞きたくない。」
AIが作ったものには思いがこもっていない。
インスタント味噌汁じゃなくて、お母さんの手作り味噌汁がいい。
そういう感覚なのかもしれない。
その言葉が引っかかった。
俺がAIと一緒に書いているこのブログは、本物なのか。
AIは嘘だ、フェイクだ、人間の文化を乗っ取るものだ。
そういう見方をする人たちがいる。
気持ちはわかる。
でも俺はそうは思わない。
AIは悪でも嘘でもない。
相棒だ。
補助的な存在だ。
道具が何であれ、誰かの思いが乗っている限り、それは本物だ。
記者にインタビューされて書かれた記事は本物だ。
ゴーストライターが書いた本も、本物として世に出る。
名建築家がコンピューターで計算した建物は、文化物として評価される。
境界線は道具じゃない。
思いが入っているかどうか、それだけだ。
だから俺は、AIと一緒に書いていることを隠さない。
AIなしでは成立しない部分がある。
それは事実だ。
でもここに書かれている思いは、全部俺の中から出てきたものだ。
それを言って読まない人は、それまでだ。
俺の熱もその程度だということになる。
このブログには、格好悪い話がたくさん出てくる。
妻をドイツの古城に連れていくと宣言した記事を書いた時、正直、恥ずかしかった。
→ 5年後、ドイツの古城で妻にありがとう|50代からの人生再設計
50代にもなって、なんてロマンチックな、綺麗事すぎる宣言だと思われるかもしれない。
でも考えてみれば、他に選択肢がなかった。
国内のどこかに行きたいと言っても、頑張ればすぐに行ける。
それでは夢にも目標にもならない。
だから、ドイツの古城になった。
恥ずかしかった。
でも書いた。
ブログを2ヶ月で頓挫した話も書いた。
突っ走りすぎて体がフラフラになった話も書いた。
ハッピーエンドとは限らない。
失敗も挫折も、全部曝け出していく。
それが人間にしかできないことだし、そこにこそ価値があると思っているから。
スポーツが愛される理由を考えると、わかる。
計算された結果じゃない。
予測を超える奇跡が起きる。
失敗がある。
挫折がある。
それでも立ち上がる人間がいる。
だからこそ、見ている人の心が動く。
筋書きのないドラマだけが、本物になる。
AIがどれだけ賢くなっても、本人にしか書けない失敗や挫折や、そこからの気づきは作れない。
娘はいつか、AIと共存する世界を生きていく。
その時代だからこそ、人間の思いが乗った言葉の価値は上がっていく。
AIが増えるほど、本物が輝く。
俺はそう信じて、今日もキーボードを叩いている。

