欲を出せない自分に、引け目を感じていた|50代が気づいた、借り物の力への違和感
立ち回りの巧さへの羨望
部下が上司と楽しそうに話しているのを見ることがある。
仕事の状況報告もあるだろうが、それだけじゃない距離の近さを感じる瞬間がある。
上司が雇い主だから恩があるのはわかる。
でも、それを差し引いても、自分よりずっと親密に見える。
誰と仲良くしておけば得か、その嗅覚が鋭い人がいる。
実権を握っているのは誰か、話をする相手を選ぶアンテナが常に立っている。
必要だと感じた時のフットワークも軽い。
出世欲を隠さず、堂々と動いている姿は、ある意味清々しくすら見える。
正直、羨ましいと思う自分がいる。
欲を出すことへの引け目
自分には、それができない。
欲を全面に出すことに、引け目のようなものを感じてしまう。
人は皆平等だという感覚なのか、欲をコントロールすべきだという教えなのか、それとも小学校の頃から刷り込まれた「自分勝手はいけない」「周りに気を使いなさい」という集団の中の道徳なのか、出どころはよくわからない。
ただ、野生のままではなく、どこかで飼い慣らされている感覚は確かにある。
損得で動くのは、本来は当たり前のことのはずだ。
世の中の誰もが平等な条件で生きているわけではない。
良いサービスを受けたければ、利益がありそうな相手に近づくのはごく自然な行動だと頭ではわかっている。
ホテルにしても何にしても、世の中はそうやって回っている。
それでも、いざ自分がその場に立つと、心のどこかで静かにブレーキがかかる。
がめつい、自分勝手、という言葉が頭をよぎる。
借り物の力への違和感
自分自身に置き換えてみても、同じことが言える。
例えば、監督と仲良くなれば、チーム内での発言権は強くなる。
周りからも「あの人は重要だ」と見られるようになる。
でも、それは自分自身への評価ではない。
誰かの影響力を借りているだけだ。
そこに、うっすらとした違和感がある。
実力を認められたいという欲求そのものは、自分の中にも確かにある。
求めているのは、借り物の力ではなく、自分自身が正当に評価されることだったんだと思う。
それも、実力と言えなくはない
一方で、その立ち回りの巧さそのものを、その人の実力だと見ることもできる。
人間関係を読み、必要な相手を見極め、影響力を築いていく。
それも一つの能力には違いない。
成り上がっていく人は、それをうまく利用する力に長けている。
そう考えると、借り物のはずの力も、結局はその人自身の能力だと言えなくもない。
借り物の力か、正当な実力か。
線引きは、結局のところ自分がどう見るか次第でしかない。
自分の芯が、何をよしとしているか
出世や、お金を稼ぐこと以上に、自分の芯が求めているのは、自分自身で納得いく行動で評価されることなんだと思う。
上司でなくてもいい。
わかる人にはわかる、それで十分だという感覚がある。
報われない時もある。
それでも、気づいて評価された瞬間の満足度は、計り知れない。
その違いがわかる瞬間の幸福感こそ、他の何よりも求めているものなのかもしれない。
地位も名誉もお金も、その次でしかない。
世間で言えば、損している部分なのだろう。
お金があれば、できることは増える。
地位や名誉があれば、周りにチヤホヤされ、頼られる。
気分もいいし、自分の価値も高く感じる。
でも、他人からの評価は一時的なもので、流れがある。
自分自身による評価だけは揺るがない。
その複利が効く方の感情を、結局は優先しているんだと思う。
それが、欲を出せない自分の、本当の理由だったのかもしれない。
父の背中に、その原型があった
これはきっと、父の生き方が根っこにある。
父はどちらかというと、世間的には不器用な人だった。
正義感が強く、出世もしなかったし、友達もそれほど多くなかった。
それでも、自分に正直に生きている人だった。
この人は信じられる、と思わせる何かがあった。
自分がどこかで借り物の力に違和感を持ち、自分自身への評価にこだわるのは、その背中を見て育ったからなのかもしれない。
