思考を整える

名前を呼ぶことが、存在を認めるサインだった|50代が気づいた、呼び方に宿るもの

バマ

何年経っても、「先生」としか呼ばれない

別の部署にいる先輩がいる。
長年、同じ職場で働いているのに、いつまで経っても自分を「先生」と呼んでくる。
名前で呼ばれたことは、一度もない。

自分に興味がないのか、関わりが薄いのか、理由はわからない。
挨拶は交わすのに、名前だけは出てこない関係が続いている。

名前を一度も呼ばれないというのは、彼の世界の中で、自分がその他大勢の一人でしかない、ということなんだと思う。
そう思うと、その相手に何かをしてあげたいとか、積極的に関わりたいという気持ちは湧いてこないのが正直なところだ。

自分にも、心当たりがあった

正直に言えば、自分にも同じところがある。
あまり関わりのない人の名前が、咄嗟に出てこないことがある。
「めんどくさい」「覚えられない」という感覚のまま、挨拶だけで済ませてしまう。
そんな瞬間、決まってあの先輩のことを思い出す。
自分がされて引っかかっていたことを、自分も誰かにしていたわけだ。

実際、脳のリソースには限りがある。
年齢を重ねるほど、名前が瞬時に出てこなくなる感覚はある。
よく使う名前は手元のメモリーに、そうでない人はバックアップの奥にしまわれている、そんな感覚だ。
都合のいい言い訳だとはわかっているけれど。

それでも、名前を思い出せた瞬間には、不思議とその頃の記憶ごと蘇ってくる。
昔の芸能人やアイドルの映像は浮かんでも名前だけが出てこない、なんてこともよくある。
それでも思い出した途端、当時の記憶までセットで戻ってくる。
言葉と記憶がそれだけリンクしているなら、名前という存在の重みを、あらためて感じる。

名前で呼ぶという、特別さ

以前、尊敬していた先輩がいた。
その人は、年下相手でも苗字ではなく、名前で呼んでいた。

名前で呼ばれると、その他大勢の「佐藤さん」ではなく、個人としての「〇〇くん」になる。
挨拶が、誰にでも向けた儀礼から、その人だけに向けた特別なものに変わる。
むず痒さはあっても、自分を認識してもらえている感覚は確かに強くなる。
親しみも、そこから生まれるんだと思う。

「先輩」と呼んでくる部下

最近入ってきた40代の部下が、自分のことを「先輩」と呼んでくる。
年齢だけで言えば、そう間違った呼び方ではないのかもしれない。
それでも、部下なのに「先輩」呼びというのは、どこか役割が曖昧にされている感じがして、軽く扱われている気がしてしまう。

本人はそのノリでずっとやってきたのかもしれないし、悪気がないこともわかる。
それでも、名前を呼ぶということの大切さを、改めて痛感させられた瞬間だった。

親しい間柄での「先輩」なら、あだ名に近い愛着のこもった呼び方にもなる。
でも、付き合いの浅い相手からの「先輩」呼びには、少し違う空気を感じる。
そう呼んでおけば済む、という気持ちが透けて見え、どこか上から目線に近い感覚すらある。
目上の人を「社長」「部長」と役職だけで呼ぶことにも、同じ危うさが潜んでいるんだと思う。

灯台下暗しだった

そう気づいた時、自分も同じことをしてきたと思い知った。
あの先輩を心のどこかで残念に思っていた自分が、いつの間にか同じ立場に立たされていた格好だ。

名前を呼ばない側には、それだけの理由がある。
忙しかったり、覚えるのが苦手だったりするだけで、悪気はないのかもしれない。
それでも、呼ばれる側からすれば、自分の存在が軽く扱われているように感じてしまう。
それは、あの先輩に対して自分が感じていたことと、まったく同じだった。

個人を尊重するということ

個人を尊重することは、まず相手の存在を認識することから始まる。
その一番わかりやすい形が、名前を呼ぶということだったんだと思う。

誰かの態度を批判する前に、まず自分の振る舞いを見直す方が先だ。
相手を認めてほしいなら、自分が先に名前で呼ぶ。
単純に、それが筋なんだと思う。

これからは、関わりの薄い相手ほど、意識して名前を呼ぶようにしたい

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ABOUT ME
バマ
バマ
50代の再チャレンジャー
アスレティックトレーナー/トレーニングコーチ。 プロとアマチュア、両方の現場で四半世紀以上、選手と向き合ってきた。 50代になって気づいた。自分を一番蔑ろにしていたのは、自分自身だった。 体を整え、思考を整え、暮らしを整え、そして自分を整える。 守りから、前へ。
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