とうもろこしおじさんと呼ばれた日|50代が気づいた、見守る側の幸福
次女との夏休み、食べ歩きの一日
夏休み、次女はあまり予定がなかった。
長女は友達と出かけていたので、妻と次女と3人で、他県まで食べ歩きに出かけることにした。
蕎麦屋は、以前から自分が行きたいと思っていた店だった。
良い雰囲気の店がいいという妻の希望もあって、山奥にある一軒を選んだ。
その日は雨予報で、妻は少し心配していた。
それでも、天気がどうであれ、その風景の中で食事をすること自体がいい思い出になると思い、妻の心配を押し切って予約したのは自分だ。
結果、雨の中での食事は、むしろ良かった。
夏の暑さが和らいで、程よい雨音と川のせせらぎ、ひぐらしの鳴き声が重なる。
おまけに、妻と次女がどちらも苦手な虫も、雨のおかげで飛んでこなかった。
心配を押し切った分、結果オーライという安堵もあった。
古民家を改装した店で、庭も日本庭園のように手入れされていた。
とうもろこし片手に、古民家の入り口で待つ
蕎麦を食べ終えた後、妻と次女は庭を散策し始めた。
自分は、そこで売っていた、朝収穫したばかりのとうもろこしを買って、古民家の入り口横のベンチに座って二人を待つことにした。
妻と次女は、庭の景色を見ながらはしゃいでいた。
花が綺麗だとか、この石の配置がいいとか、そんな他愛もない会話をしながら、庭を歩いている。
自分はとうもろこしを抱えたまま、その様子をただ眺めていた。
しばらくして、次女が写真を撮ってきた。
庭側から古民家を撮った一枚で、その入り口の脇に、とうもろこしを抱えてちょこんと座る自分が写り込んでいた。
「とうもろこしおじさん」と笑いながら見せてくれた写真だった。
意外なほどの幸福感
その瞬間、自分でも意外なくらい、幸福を感じている自分に気づいた。
何かをしてもらったわけでも、何かを達成したわけでもない。
ただ、大事な人たちが楽しそうにしている姿を、少し離れたところから眺めていただけだ。
それだけで、こんなに満たされた気持ちになるとは、正直思っていなかった。
以前なら、家族のイベントは、罪滅ぼしのような感覚でこなしていた。
プールに行くにしても、旅行に行くにしても、家族が満足すればそれでいい、自分は付き合ってあげているだけだ、というスタンスだった。
その場を楽しむという発想自体が、正直あまりなかった。
同じ味を、分かち合うということ
これまでも、クレープ屋やジェラート屋に寄ることはあった。
でも、そこまで食べたいわけでもないし、お金もかかるからと、自分だけ何も頼まずに済ませることが多かった。
今回は、何気なく同じものを一緒に食べていた。
ジェラードもクレープも、味覚や視覚を家族と分かち合う時間になった。
時間を一緒に過ごすだけじゃなく、同じ味、同じ景色を共有すること自体が、幸福度を底上げしてくれるのかもしれない。
そしてもう一つ、今回は違ったことがある。
自分が主役になって何かをするわけでもなく、ただ二人がはしゃぐ様子を眺めていただけなのに、その時間が幸福だった。
参加していないようで、実はちゃんとその場にいて、その空気を味わっていたんだと思う。
気持ち次第で、同じ状況でも、感じ方はまるで違ってくる。
以前の自分だったら、待っている時間を「付き合わされている時間」として捉えていたかもしれない。
今回は、それが「見守っている時間」に変わっていた。
長女への、小さな後ろめたさ
正直、長女には申し訳ない気持ちもある。
楽しそうな写真だけを送りつけて、次女との時間をうらやましがらせてしまった。
友達との時間を選んだのは長女自身なのに、それでもどこか、置いていったような後ろめたさが残る。
それでも、長女には長女の時間があり、次女には次女の時間がある。
今回は次女にいい思いをさせてあげたかった、それだけだ。
見守ることも、家族の時間の一つの形
家族がいるから、実行できることがある。
以前も書いたけれど、家族との食事は、それだけで幸福度を押し上げてくれる。
今回、改めて気づいたのは、その幸福は必ずしも自分が中心にいなくても成立するということだ。
とうもろこしを片手に、庭を眺めているだけの時間にも、ちゃんと幸福は宿っていた。
主役になって楽しむことも、脇で見守って楽しむことも、どちらも家族との時間の一つの形なんだと思う。
これから先も、無理に前に出るのではなく、時にはこうして、見守る側に回ることを楽しんでいきたい。
