「話を聞いて欲しかっただけ」|50代が気づいた、意味を持たせすぎる会話の癖
「話を聞いて欲しかっただけ」——妻によく言われる言葉が、今更になって腑に落ちた。
時間単価で生きてきた性格が、会話にも滲み出ていた
内容の薄い仕事は、昔から苦手だった。
意味を持たせる、価値を見出す。
そこにやりがいを感じるタイプだ。
ブログを書く時も同じだ。
出発の時間、次の予定まで残り何時間あるか。
逆算して、どこまで書けるか、どこまで進められるかを考える。
時間に対して何ができるか、どう有効に使うかを、考えすぎる傾向がある。
とにかく1日の単価を上げたい。
無駄のない1日にしたい。
何もかも、価値あるものに変えようとしてしまう。
昨日も、出発前ギリギリまで、雑談しながらブログのネタを考えていた。
30分でも早めに切り上げて、ゆっくりすればいい。
頭ではそう分かっている。
でも、そのゆっくりができない。
時間枠を決めたら、そのチャンスを最大限使い切ろうとする。
ちょっとがめつい、貧乏性と言ってもいい。
子供の頃、親から「ご飯は一粒も残さず食べなさい」と言われて育った。
それが今、最後の1分まで無駄にしない、という形に姿を変えているのかもしれない。
選手には分かるのに、家族には分からなかった
この性格は、会話にも滲み出ている。
ただ、面白いことに、場面によって出方が違う。
選手が相手だと、専門的な話や、伝えるべき情報がある場面は、むしろ得意な部類だ。
でも、何気ない世間話になると、逆に気を使ってしまって、うまく話せない。
家族が相手だと、逆になる。
何気ない会話自体はできる。
でも、油断すると説明的になって、話が長くなる。
妻には、よくそこを指摘される。
気を抜いて、ただ話せる場面が、実はどこにもなかった。
朝食会場で見た、なんでもない会話
先日、朝食の会場で、子供とおじいちゃんの会話が耳に入った。
「ご飯おいしいね」「今日は混んでるね」。
当たり前の内容だ。
そこまで聞き耳を立てていたわけではないから、詳しくは分からない。
ただ、おじいちゃんが結構な頻度で質問していて、次から次へと会話が続いていくのが印象に残った。
自分なら、ちょっと喋ったら無言になる。
そう思いながら、二人のやり取りを見ていた。
「話を聞いて欲しかっただけ」
家族との会話でも、似たようなことが起きる。
ただし今度は、無言になるんじゃなくて、説明的になりすぎる方に転ぶ。
別の日、妻と娘の間でこんなやり取りがあった。
娘が急に「明日のお昼はお弁当」と言い出した。
妻は「そんな大事なこと、前もって分かってるなら学校ももっと早く教えてよ」と困っていた。
妻は、自分にただ「そうだね、大変だね」と言ってほしかったのだと思う。
でも自分は、学校側の立場に立って、「向こうも忙しいだろうし、伝達ミスもあるだろう」と話してしまった。
妻からすれば、同情してほしかっただけだった。
原因を究明してほしいわけじゃない。
いつも、こうなる。
話が説明的で長い、そういうことを言って欲しいわけじゃない——妻にはよくそう言われる。
質問や返答を、情報収集や状況分析の手段として扱っていたのだと思う。
相手を喜ばせよう、不快にさせまい、必要な情報を引き出そう。
そうやって身構えているうちに、ただの会話ができなくなっていた。
「今日どうだった?」「まあまあ」。
それでいい。
中身のある答えを引き出そうとしなくていい。
質問という行為そのものが、「気にかけているよ」を伝える手段なのだと、今更ながら気づいた。
選手が「まあまあです」と言った時、自分はそこで会話を終わらせたりしない。
「そうか」と返して、あとは黙って隣にいる。
家族に対しても、同じでいいはずだった。
次、意味を持たせようとしている自分に気づいたら、一回だけ、相槌だけで終わらせてみようと思う。
練習のつもりで。
