自分で考えるから、腹を括れる|50代が気づいた、主体性という土台
昔は「こういう問題があります」と相談してきた。
今は、問題があることにすら気づいていない。
こちらから「今どう見える?」と聞いて初めて「どう見えますか?」と返ってくる。
問題が起きている、あるいは起きようとしているシグナルを、自分では読めていないのだ。
だから「やったほうがいいですか」という聞き方になる。
問題を特定できていないから、解決策も自分では出てこない。
なぜそうなったのか。
一つの仮説がある。
「できない苦労」がなくなってきた
ゲームを自分でクリアするのと、ゲーム実況を見ながらクリアするのは、工程としては同じだ。
でも、体に残るものが全然違う。
実況を見れば詰まらずに進める。
あたかも自分でできているような感覚もある。
でも試行錯誤した記憶も、壁にぶつかった感触も、自分の中には残らない。
ビタミン剤とレモンも同じだと思う。
ビタミンCという「正解」だけを取ることはできる。
でもレモンを食べた時の副産物——酸味、香り、噛んだ感触——は手に入らない。
苦労の中にこそ、目的以外の副産物がある。
情報が整いすぎた時代に、その「泥臭い工程」ごと省略されてきた。
その結果、問題が起きていることにすら気づけない感度になってきているのかもしれない。
これは、世界全体で起きていることだと思う。
「どう感じる?」から始める
私のスタンスは、ずっと変わっていない。
まず相手に「どう感じる?」と聞く。
自分の言葉で説明させる。
こちらなりの見立てはしている。
でも、その答え合わせは会話の中でやっていく。
そうすると、面白いことが起きる。
こちらが想定していた以上の深い気づきが、相手の口から出てくることがある。
何十年この仕事をやってきても、勉強になる瞬間だ。
「教える」のではなく、「引き出す」。
それだけで、相手の中で起きることが全然変わる。
指示する側も、実は同じだった
ここで、少し立ち止まって考えてみた。
「自分で考えない若い世代」と言いながら、自分はどうだったか。
組織の中で動く時、意見を通すには工程がいる。
上に伝えて、さらにその上が承諾して、ようやく動ける。
その工程が面倒になると、許可が取りやすいものだけをやるようになる。いつの間にか、自分も「指示待ち」の構造の中にいた。
教える側と教わる側。
立場は違っても、「やらされている感」は同じように忍び込んでくる。
環境が人を作る、という言葉がある。
主体的でいたいと思っていても、その構造の中に長くいると、少しずつ削られていく。
そのことに気づいたのも、50代になってからだった。
だからこそ、現場での即時対応がより重くなる。
ベルトコンベアーは、止まらない
現場はナマモノだ。
問題に気づいた瞬間が、一番熱量がある。
その場で修正するから、次に繋がっていく。
時間が経つと、感覚も熱意も冷めてしまう。
「まあいっか」と、そのまま流れていく。
ベルトコンベアーに流れてくる商品に問題があっても、許可を取っている間に通り過ぎてしまう。
そんな感じだ。
小さな問題が見過ごされ続けると、積もり積もって大きな問題になる。
即時対応できる現場には、主体的に動ける人間が必要だ。
そして、そういう人間が育つには、「自分で判断していい」という環境が先に必要だ。
自分で判断した経験が、ピンチを救う
本番は、自分で判断するしかない。
誰かに指示を仰ぐ時間はない。
その場で、自分の頭で考えて、動く。
それしかない。
普段から自分で考え、自分で決めてきた人間は、ピンチで腹を括れる。
やらされてきた人間は、ピンチで止まる。
「どうすればいいですか」と聞ける相手が、そこにはいないから。
主体性とは、習慣だ。
日々の小さな判断の積み重ねが、本番の判断力になる。
自分の考えに沿って動く時間は、重さが違う
環境が整わなければ、難しい部分もある。
それは正直に認める。
ただ、環境のせいにするだけでは何も変わらない。
まず自分の考えを整理する。
その考えに沿った方法でやる。
それだけで、物事への向き合い方が変わる。
時間の密度が上がる。
やっている時間が、自分のものになっていく感覚がある。
自分で考えて動いた時間は、誰かにやらされた時間とは、全然違う重さを持つ。
50代になって、そのことをより強く感じるようになった。
この年齢になると、どちらかというとサポートする側に回ることが多くなる。
でも、だからこそ思う。
積み上げてきた経験と感度を信じて、感覚の赴くままに大胆に動いてみる。
そんなチャレンジが、50代にはあっていいんじゃないか。
自分の意思に正直に。
野生の勘を、もう一度信じてみる。
それが、50代の新しい動き方なのかもしれない。
