得意なことは、場があって伸びていた|50代が気づいた、老後に向けた準備
体調を崩した叔母が、両親の家で静養することになった。
久しぶりに会ったその姿に、しばらく言葉が出なかった。
老けて見えたのは、年齢のせいだけじゃなかった
横になっている時間が長い。
起き上がってきてからの動きも、なんだか大変そうだった。
年上のはずの両親より、叔母のほうがずっと老けて見えた。
あれだけおしゃべり好きだったのに、あまり喋らない。
話しかけても、短く返してくるだけで、続きを自分から広げてこない。
その姿を見て、最初は「歳をとったんだな」で片づけそうになった。
でも、それだけでは説明がつかない何かがある気がしていた。
得意なことは、場があって伸びていた
叔母は、世話好きだった。
誰かと話すことも好きだった。
でも、それは「得意なこと」がそれ単体で存在していたわけじゃなかったんじゃないか。
夫がいた。
娘たちがいた。
世話する相手、会話をする相手――向ける先の場があったから、その部分は伸びて、続いていた。
体調を崩す前、叔母はしばらく一人で暮らしていた。
その一人暮らしの間に、向ける先が消えていったんだと思う。
すると、得意だったことも、興味があったことも、続けられなくなっていく。
会話の習慣、人のために動く体力と気力。
使わなければ、その感覚そのものが鈍っていく。
寂しさ対策だと思っていたものの、本当の意味
ボランティアで人を助け続ける人。
サークルで人と話す習慣を持つ人。
以前は、ああいう行動を、一人の寂しさを紛らわすためのものだと思っていた。
たしかにそれもあると思う。
でも、叔母を見て、それだけじゃないと気づいた。
あれは寂しさ対策であると同時に、得意なこと、興味があること――それを保つために、向ける先を自分で作り続ける行為でもあったんだと思う。
向ける先がなければ、力は静かに衰えていく。
だからこそ、その場を自分でつくり、持ち続ける必要がある。
3軸は、今の場の上に立っている
今の自分は、仕事・家族・自分。
この3軸で生活を設計しているつもりでいる。
でも、その3軸は、今、周りに場があるから成り立っている部分もあるはずだ。
仕事があるから、体を動かす。
家族がいるから、気を配る。
もしそのどちらかが消えた時、自分は何を向ける先として、自分で作れるんだろうか。
そこに気づいた瞬間、逆に一つ、手応えを感じたこともあった。
トレーニングは、もともと仕事の延長でやっていた部分が大きかった。
でも最近は、健康を維持したい、見た目を良くしたい、単純に自分を好きでいたい――そういう理由に変わってきている。
これは、自分という軸への転換が、すでに一つうまくいっている例なんだと思う。
叔母の姿を見て、自分にもすでにできていることがあると気づけたのは、少し救いだった。
場を自分で作る準備を、50代のうちに
老後には時間がある。
でも、時間があることと、動く理由があることは別物だ。
得意なこと、好きなことを持ち続けたいなら、それを向ける場を、自分の手で作り続けるしかない。
誰かが用意してくれるのを待っていては、いつかその場ごと失う。
若い頃と違って、今は経験がある。
何が自分の張りを保っているのか、少しずつわかってきている。
あとは、50代のうちにどれだけ気づいて、どれだけ準備できるか。
それだけだと思う。
