そっけなく見えたのは、自分のせいだった|50代が気づいた、距離感の作り方
ある選手と、なんとなく会話が続かなくなっていた。
挨拶はする。
でも、その先が続かない。
話のネタが、パッと浮かばなくなった
挨拶はいつも通りにしていた。
でも、それ以上の会話に踏み込めない日が、何日か続いていた。
相手の表情が、心なしか硬い気がしていた。
笑顔で話しかけてくることも、自分から挨拶してくることも、以前より減っていた。
会話が減ると、相手の変化にも気づきにくくなる。
話のネタが浮かばないから、ますます挨拶だけで終わる。
悪循環だった。
本当は、別のところに気を使っていた
原因に、うすうす心当たりがあった。
最近、別の選手――いわば、ライバル的な存在――のトレーニングを一緒に考える時間が増えていた。
誰か一人と時間をかけすぎると、他の選手から見て「特別扱いしている」ように映るんじゃないか。
できるだけフラットに接したいと思ってきたからこそ、その均衡が崩れることを、いつも気にしてしまう。
だから、無意識のうちに距離を取っていたのかもしれない。
あの選手が、俺があの選手ばかり見ていることに嫉妬しているんじゃないか――そう勝手に想像して、先回りして遠慮していた。
汲み取りすぎる職業柄、それが重くなる年代
選手との距離感には、いつも神経を使ってきた。
苦労を汲み取って声をかけるのか、そっとしておくのか。
その判断が仕事の一部だという自覚がある。
だからこそ、余計なことまで考えすぎる。
50代になった今、それがどこか重くなってきている気がする。
昔は選手との年齢差もそれほど開いていなかった。
でも今は、孫と話すような感覚になる選手もいる。
ノリがわからない。
どう話しかけるのがいいのか、正直迷うことも増えた。
わからない相手を、わからないまま見ていても仕方がない。
それより、自分がなぜその選手をそう見ているのかを、素直に分析する方が早い。
そこに、自分がどうすべきかのヒントがある。
それに、疲れていたり何かを抱えていたりすると、自分でも気づかないうちに「寄ってくるな」というオーラを出してしまうことがある。
ただでさえ年上の立場で、表情が硬かったり近寄りがたい空気を出していたりすれば、相手がわざわざ近寄ってこないのも当然かもしれない。
髪を切ってきた日、勝手な思い込みに気づいた
ある日、その選手が髪を切ってきた。
そのことを話しかけてみた。
返ってきたのは、いつもとまったく同じ受け答えだった。
たぶん相手は、普通に日常の会話をしてきただけだった。
その瞬間、気づいた。
相手の行動や表情を見て、自分が勝手に意味づけしていたんだと。
「嫉妬されているかもしれない」「なんとなく距離を感じる」――そう思い込んで、自分からコミュニケーションを減らしていた。
表情が硬く見えていたのも、そっけなく感じていたのも、相手じゃない。
相手は、何も変わっていなかった。
相手がどうこうより、自分発信だった
よく聞く話だが、関係がぎくしゃくする時、原因は相手より自分にあることが多い。
問題が起きた時、相手の何が悪いかではなく、自分の何がそれを引き起こしたのかを見る。
その視点に立つと、変えられることが見えてくる。
変えられないもの――相手の性格や態度――に目を向けている間は、何も動かせない。
でも、自分の受け止め方や行動なら、今日からでも変えられる。
変えられる部分から、変えていく
あの日、髪型の話をしなかったら、たぶんまだそっけなさを感じたままだっただろう。
きっかけは小さくていい。
話しかける。
声をかける。
その一歩は、いつだって自分の意思で選べる。
相手がどう思っているかは、結局のところわからない。
わからないことに時間を使うより、自分から動ける部分に、目を向けていきたい。
これだけ自分のことを再設計してきたつもりでも、まだまだ未熟な部分がある。
でも、それでいいのかもしれない。
未熟さが残っているからこそ、人生はまだ面白い。
気持ちの持ちよう一つで、次の日に見える景色が変わる。
不思議なものだと思う。
相手の何が悪いかではなく自分の何がそれを引き起こしたのかを、いちいち考えてしまうこと自体、50代になって、考えすぎて疲れることが増えたのと、同じ根っこにある気がする。
