ちょっとだけリードすればいい|50代が見つけた、守りやすい生活の作り方
同じ「守る」でも、リードしている時と、ビハインドの時とでは、意味がまるで違う。
先日、ベテラン選手が若手選手に自分の経験を話しているのを、そばで聞いていた。
リードで終盤を迎える場面と、ビハインドで終盤を迎える場面。
守るという行為の中身が、そっくり違うという話だった。
「守り切る」は楽で、「悪くしない」はきつい
リードしているとき、考え方はシンプルになりやすい。
仮にこの1点を追いつかれても、負けじゃない。
ただ振り出しに戻るだけだ。
守るべきものが一つに絞れるから、思い切って動ける。
でもビハインドのときは、目的が絞りづらい。
これ以上離されたら、印象はマイナスにしかならない。
踏ん張ったところで「勝利に貢献した」というのは薄い。
守る対象がはっきりしないまま、ただ悪化させないことだけを求められる。
モチベーションの置き所が、驚くほど難しい状況だ。
聞きながら、ふと自分の生活のことを思った。
これ、そのまま当てはまるんじゃないか。
守りにも二種類ある。
何かを守り切る守りと、悪化を防ぐだけの守り。
同じ「守る」という言葉でも、消耗のかかり方が違う。
40代、脳のリソースを無駄に使っていた
40代の頃は、正直この「負けている側」の感覚に近かった。
給料日が待ち遠しかった。
クレジットの支払い、学費、その他の出費。
毎月、残高を計算して、そこから何とか貯蓄に回す。
自転車操業という言葉が、大袈裟でも何でもなかった。
老後の資金も心配しなきゃいけないとわかっているのに、その余裕がない。
だから、いつも恐怖と戦っていた。
悪くならないように。
悪くならないように。
先を見据えなきゃいけないのに、見据える余裕がない。
その矛盾を抱えたまま、毎月をやり過ごしていた。
周りには弱音を吐かず、平然としたふりをしていたのも、今思えば余計に消耗していた。
今思えば、あれは脳のリソースを、ただ浪費していた状態だった。
考えても仕方のないことを、頭の中でずっと繰り返していただけだ。
今は、リードしている側にいる
子供たちの学費のことは、目処が立ってきた。
住宅ローンはまだ残っている。
でも、それに縛られている感覚はない。
給料日を気にせず家計を見られるようになった。
突然の出費があっても、対応できる備えがある。
毎年、国民健康保険や市県民税の額が収入に応じて上がる。
以前は、それが少し上がるだけで家計への負担を感じて、なんでこんなに払わなきゃいけないんだ、と制度そのものにストレスを感じていた。
今は、それを受け入れる余裕がある。
変えられない制度に脳のリソースを使うのをやめた。
国民の義務だから、で片付けられるようになった。
守るべきものは、はっきりしている。
あとは、それを守り切ればいいだけだ。
だから思い切って動ける。
同じ「気を張る」でも、目的がある緊張と、目的のない緊張は、体感に差がある。
守り切る緊張は、むしろ心地いいくらいだ。
必要なのは、少しの豊かさだった
すごく裕福である必要はなかった。
すごく充実している必要も、たぶんない。
毎日の生活の中に、ちょっとしたポジティブな余白があるだけでいい。
それだけで、同じ困難に直面しても、消耗の度合いが違ってくる。
余白があれば、悪い状況も「守り切ればいい」対象に変わる。
余白がなければ、良い状況ですら「悪化させないように」という緊張の対象になってしまう。
目指すべきものがある状態と、ただ悪くならないように身構えるだけの状態。
50代になって、その差の大きさに気づいた。
今の自分は、少しだけ豊かな毎日を、大事に積み重ねていきたいと思っている。
すごく豊かじゃなくていい。
ちょっとでいい。
それだけで、明日への気の持ちようが、確実に変わってくる。
