恩は、天下の回りものだった|50代が気づいた、頼らない生き方の代償
人に頼るのも、人から受け取るのも、本当はどちらも苦手だった。
部下の一言が、なぜか自分に返ってきた
部下が、何かにつけて人に頼む。
専門の人間に任せた方が早く解決するのに、なぜみんな同じようにしないんだろう――そう、彼自身が口にした。
その言葉を聞いた瞬間、矛先はなぜか自分に向いた。
なぜ自分は、そういうマインドになれないのだろう。
人に頼めば早く済むとわかっていながら、できる限り自分で解決しようとする。
人に頼むことも、人から受け取ることも、結局は同じ構造の中にある。
借りを作れば、そのぶんバランスが崩れる。
その感覚の出どころは、30代の頃の失敗にある。
30代の頃の失敗
まだ経験の浅かった時期、個人的に食事に行くことはなかったが、ある選手に誘われる形で、月に2度ほど食事に行く時期が続いたことがある。
指摘されたことは一度もなかった。
それでも、いつからか、周りの対応にわずかな距離を感じるようになっていった。
チームスポーツに関わる仕事は、選手全体との距離感で成り立っている。
誰か一人と継続的に食事を共にすれば、他の選手との信頼のパワーバランスは、指摘されなくても静かに崩れていく。
その経験以来、選手と個人的に食事へ行くことはしなくなったし、物をもらったり、ねだったりする行為もしないようにした。
今思えば、それが、人に頼ることをしなくなっていった原因なのかもしれない。
人に頼る人と、自分との温度差
その部下は人当たりがよく、誰に対してもそつがない。
人にお願いをすることへのハードルが低く、頼む行為自体にそれほどストレスを感じていないように見える。
その分、頼まれることも多い。
人混みの中で生きることに慣れているタイプなのだろう。
一方、自分はマイペース派だ。
生活を自分でコントロールしたいという欲求が強く、人に干渉されることを最小限にしようとする。
SNSに興味が湧かないのも、LINEのやり取りが家族中心で完結しているのも、その延長にあるのかもしれない。
優劣ではなく、
人との距離の取り方が根本的に違うだけ
なのだと思う。
この距離を評価ではなく気質の違いとして見られるようになったのも、50代までの経験と、思考を整理してきたことの賜物なのかもしれない。
恩は、天下の回りもの
よく「徳を積む」という言い方がある。
金は天下の回りもの、というやつだ。
心のどこかでは見返りを求めているのだとしても、それを目の前の相手からではなく、もっと大きな巡りの中で受け取ると考えるなら、
案外もう実践していることに気づく。
部下を食事に連れて行く。
先を見据えて仕事をしておく。
自分の時間を選手のために使う。
家族のために動く。
どれも、相手から直接何かが返ってくることを期待しているわけではない。
ボランティアや、どこかの団体への寄付までは、まだ手が伸びていない。
面倒くさいという気持ちと、今はそこまでの余裕がないという現実がある。
それでも、この法則で考えれば、それも選択肢のひとつのはずだ。
見返りというと、反射的にお金や人脈、プレゼントのような形のあるものを思い浮かべてしまう。
だが50代になって、その感覚が変わってきた。
見返りは、幸福という無形のものに変換されて返ってきてもいい。
むしろその方が、受け取ったときの喜びは大きい。
投資の対象が、お金から幸福へと変わっていく時期。
それが50代なのかもしれない。
自分が選んできたバランスの代償
それでも、自分はしがらみを作りたくない。
過去の失敗の記憶があるからこそ、物をもらう、奢ってもらうという行為の裏に、見返りを求める気持ちがどれくらいあるのかを、無意識に測ってしまう癖がついている。
だが、それは同時に、
社会の中で損をしている生き方なのかもしれない
とも思う。
人に頼めば早く片付く問題もあるし、頼り頼られる関係の中で、出世をしたり評価が上がったりすることもあるだろう。
その代わりに、束縛や気疲れ、人間関係のストレスといった負担も背負うことになる。
自分は、その両方のバランスの中で、ここまで生きてきたのだと思う。
50代になって、ようやくその構造が見えてきた気がする。
思考の整え方の順番は、50代 考えすぎて疲れる理由|四半世紀以上現場に立ってきたトレーナーが見つけた、思考の整え方の順番にまとめている。
