安心と信頼は、違うものだった|50代が向き合う、我慢の限界の正体
「今年で辞めようと思います。」
上司との面談を終えたあと、どこか気まずそうな顔で、部下がそう切り出した。
部下から聞いた「辞めようと思う」という言葉
理由は、上司への不信だった。
ずっと話を聞いてきたから、正直「やっぱりな」という感覚だった。
彼が活躍できる場は他にもある。
その選択は自分もわかる、と伝えた。
その上で、自分にできることがあれば力になりたい、とだけ言った。
50代の自分は、まだ我慢できている。
家族・自分・仕事という3つの軸で生きているから、仕事の環境がしんどくても、他の軸が支えてくれる。
でも彼は今、家族と離れて暮らしている。
仕事環境の悪化がそのまま生活の質に直結する。
耐える意味そのものを、問い直す状況にいた。
言っていることとやっていることが、噛み合わない上司
上司は、休めと言いながら休日にミーティングを入れてくる。
忙しくても近くにいる一部の人間だけが情報を優遇され、そこに賛同しない人間には「仕事に真摯じゃない」という空気が向けられる。
言っていることとやっていることが、いつもどこかで矛盾している。
これは信頼の話をする以前の問題なのかもしれない、と思うようになった。
社会心理学では、安心と信頼は別のものとして区別されることがある。
安心とは、相手が裏切る可能性そのものがない状態。
信頼とは、裏切る余地があっても裏切らないと信じられる状態だ。
うちの職場は、その手前——言動が一致しないせいで、そもそも安心すら成立していないという状態なんだと思う。
距離を取ることは、逃げではなく最低限の防衛だった
厚生労働省の調査でも、離職理由に職場の人間関係を挙げる人は一定数いる。
近年は、本人が直接話をせずに退職代行を使って辞めるケースが増えているというデータもある。
話し合いという選択肢自体が、もう機能していないということなのかもしれない。
距離を取ることが、健全な働き方の正解だとは思わない。
ただ、それすらしなければ、もっと削られていたはずだ。
辞めていく部下も、職場に残って距離を取る自分も、実は同じことをしている気がする。
距離を取ることは、前向きな選択というより、最低限の防衛なんだと思う。
生き延びてはいるが、育ってはいない状態。
それでも、何もしないよりはずっといい。
同じ環境でも、耐えられる人と耐えられない人がいる
同じ理不尽な環境にいても、耐えられるかどうかは、たぶん軸の数で決まる。
自分は今、残業をできるだけ減らして、睡眠時間を確保する。
仕事が残っていても、朝はトレーニングを済ませてから向かう。
効率を上司へのアピールの道具にするのをやめて、自分と家族のための時間として使うようになった。
周りはまだ「長く働くことが貢献」という価値観のままだけど、自分はそこから静かに降りている。
地位や周りからの評価のために働いているわけではない。
それが周りにどう映っているかはわからないが、自分の中では納得している。
自分という限られた資源を、どう配分するか
優秀な部下が辞めていけば、自分の仕事は増える。
新しい人にまた一から教えることになるし、組織としての成長も一時的に遅れる。
それを軽く見ているわけではない。
ただ、そこに全部を注ぐつもりもない。
自分一人が職場環境を良くできるわけではないし、その責任を一人で背負う必要もない。
限りある自分という資源を、どこにどう配分するか。
その思考の軸さえ持っておけば、それでいいのかもしれない。
結局、部下が辞めることへの不安の正体も、周りの評価そのものへの恐れというより、変化を受け入れ直すストレス——まだ起きてもいないことへの漠然とした恐怖に近い気がする。
どう思われるかは、もう昔ほど気にならなくなった。
仕事に全部を振っているわけではない以上、周りからの評価がそこそこになるのも当然だと思う。
それは、自分で選んだバランスの結果だから、それでいい。
それでも、自分がやるべき仕事は、プロとして淡々とやる。
その一貫性だけは崩さずにいることが、遠回りでも、周りからの信頼につながっていくんだと思う。
あの日、面談明けの部下に返した「わかるよ」という言葉は、今もそれ以上のものにはなっていない。
それでいいんだと思う。
信頼できるかどうかを、いちいち考え直してしまうこと自体、50代になって、考えすぎて疲れることが増えたのと、同じ根っこにある気がする。
