終電に間に合っただけなのに|50代が気づいた、運を拾える自分でいることの意味
正直、迷っていた
出張が続く中、今回は休みの日に合わせて地元で歯科検診を受ける予定だった。
ただ、出張先でそのまま一泊した場合、翌日はわざわざ地元に立ち寄って検診を受けてから、また次の現場へ向かうという、二度手間の工程を踏まなければならない。
本来ならネット上でスケジュール変更できるが、前日だったこともあり、変更するなら当日の朝に電話で連絡する必要があった。
しかもその検診は、一度リスケジュールしている。
次に空いているのは、また一ヶ月半以上先。
かといって、そのためだけに地元へ寄っていくのも気が重い。
電話してキャンセルするか、出張先に泊まった場合は朝の気分で決めよう——前日の時点で、答えを出さずに保留にしていた。
終電に、なんとか間に合った
結局、その日は仕事が予定より早く片付き、思いがけず最終電車に間に合うことになった。
駅に着いたのは発車の20分前。
もともとは一泊するつもりだった分、「間に合った」という感覚は大きかった。
最終で帰った分、帰宅は夜遅くになった。
それでも、翌朝は7時に起きることにした。
次の日の予定はトレーニングだけで、特に早起きする理由はなかったが、朝はいつも娘たちのどちらかが時間に追われていて、結局送っていくことになるパターンが多い。
その備えのつもりだった。
足りない睡眠は、トレーニング後の余白で埋めるつもりだった。
この時点では、まだ「二度手間をせずに済んだ」くらいにしか思っていなかった。
だが、この一本の電車が、次の日の輪郭を全部変えることになる。
朝、遅刻しそうな娘を送りながら
本来なら存在しなかったはずの朝だった。
予定通りなら、その時間はまだ移動中だったはずだ。
朝、娘がバイトに遅刻しそうにしていた。
今回もそれが的中したのか、最初からあてにされていたのか——それはわからない。
ただ、いつも通り早めに動いておいたことが、そのまま活きた形になった。
送っていく車の中で、色々な話をした。
時給の話、パンケーキ屋というバイト先の話。
結構有名な店らしいが、常に募集をかけているらしく、「それだけハードな仕事なのかもね」「だからすぐ辞めちゃう人もいて、また募集してるのかも」なんて予想をしながら、「まあ、楽しければいいよね」で落ち着いた。
特別な会話ではない。
ただの日常の一コマだ。
でも、これは「前日に間に合っていたから」しか存在しなかった時間だった。
そこから広がった一日
娘を送り出したあと、午前中はしっかりトレーニングの時間に充てられた。
昼は誰もいない家で、狙い通り少し眠って睡眠を埋め合わせた。
予定通り検診を終えたあとは、次の現場へ移動。
その道中、駅弁を買うことにした。
事前にネットで人気商品を調べていたが、売り場に立つと予算2000円の中で10分近く迷った。
最後はフィーリングで、穴子弁当に決めた。
1600円。
普段はまず出さない金額だったが、食べてみると素直に美味しくて、その値段は正解だったと思えた。
夜10時には寝る予定だったから、消化のことを考えても、電車の中で早めに済ませておくのがちょうどよかった。
もし予定通りに出張先で一泊していたら、この日はまだ移動の途中から始まっていただろう。
地元に着いてから検診を受け、そこから次の現場へ向かうだけの一日になっていたはずだ。
何も悪くない一日だ。
ただ、今日と比べると、輪郭はずいぶん薄かったと思う。
時間に支配されているんじゃなく、拾える状態にあったかどうか
終電に間に合ったこと自体は、正直、運の要素が大きい。
そこは自分でコントロールできることではない。
でも、その後に起きたことは違う。
早めに起きておいたことも、娘の送迎も、トレーニングも、駅弁への1600円も、間に合った瞬間にはもう「その時間をどう使うか」の答えが揃っていた。
どれも、もともと日頃から積み重ねてきた習慣の延長だった。
運は選べない。
でも、運が来た時にちゃんと拾えるかどうかは、日頃の積み重ねが決めている。
一日の使い方の積み重ねが、心身にも、幸福度にも、少しずつ効いていく。
今回、それを身に沁みて感じた一日だった。
