結果を聞いた瞬間に、疲れが来た|50代が気づいた、メンタルが疲れの引き金を引くという事実
3日間、睡眠を削って娘に数学を教えた。
まずAIを使って自分自身が理解する。
何十年ぶりかの高校数学だ。
ある意味、自分の勉強をしているようなものだった。
脳が疲れる。
そこに「人に教える」という負荷が重なる。
いつもやらないことをやっている、という違う種類のしんどさがあった。
仕事の疲れが残ったまま、夜遅くまで机に向かう。
いつも通りトレーニングもしていたが、それすらいつもよりしんどく感じた。
力が入らない感じ。
体がだるい。
気持ちがもう一段階上がってこない感じ。
それでも動けていた。
娘の試験結果を聞くまでは。
疲れは、ずっとそこにあった
結果が思うように出なかったと聞いた瞬間、どっと来た。
娘が落ち込んでいるのがわかった。
なんとかしてあげられなかったという申し訳なさ。
普段から準備しておきなと言っていたじゃないかという気持ち。
3日間頑張ったのにという、時間の価値が薄れたような感覚。
正直、この結果は予想できていた。
付け焼き刃ではうまくいかないと、頭ではわかっていた。
それでも手伝ったのは、落ち込む姿を見たくなかったからだ。
どうにか乗り越えてほしかった。
だから残念だった。
それが全部、同時に押し寄せてきた。
フィジカルの疲れは、3日間ずっとそこにあった。
でもメンタルが「まだ意味がある」と思っている間は、表に出てこなかった。
支えが外れた瞬間に、一気に解放された。
疲れはフィジカルだけど、メンタルが解放のタイミングを決めている。
現場でも、同じことが起きる
試合という場面と向き合うケースが多い。
選手それぞれに思い入れがある。
全員がうまくいく試合はない。
チームとして勝負の結果はあるけれど、うまくいかなかった選手が多かった日は、特にしんどい。
フィジカルの疲れは同じでも、翌日の重さが全然違う。
結果がよかった日は、同じ疲労でも「やった」という感覚が上に乗ってくる。
うまくいかなかった日は、疲れがそのまま、重さとして残る。
体は正直だ。
でも、数字だけでは見えてこないものがある。
疲れを「管理する」という発想
今回、改めて思った。
疲れはフィジカルだけの問題じゃない。
でも今回気づいたのは、メンタルの着地点が、フィジカルの疲れの出方を左右するということだ。
四半世紀、選手の疲れと向き合ってきた。
フィジカルの数値の割に、結果が伴わない時がある。
技術的なことで悩んでいる時。
プライベートに問題やストレスを抱えている時。
自分のプレーに集中できていない時。
そういう時に、結果が出ないことがある。
体のデータは変わっていない。
でも何かが違う。
それがまさに、メンタルのコントロールが効いていない、あるいは大きな負担になっているサインだ。
体だけ見ても、半分しか見えていない。
それでも、人と関わることを選ぶ
同じ負荷をかけても、手応えがあれば回復は早い。
手応えがなければ、同じ疲れがずっと重い。
疲れを感じた時に「何があったか」を一緒に振り返るようにしているのは、そのためだ。
人と関わることで、疲れは生まれる。
一人で完結する仕事の方がやりやすいと感じる人がいるのも、わかる気がする。
でも自分の成果と、関わる人の成果が重なった時、結果は掛け算になる。
一人でやっていては生まれなかった喜びが、そこにある。
リスクとリターン、と言えばそういうことなのかもしれない。
疲れることを選んでいるのは、その分の満足があるからだ。
娘のことも、同じだった。
娘の試験の結果は、思うようにはいかなかった。
でも今回の経験を、娘が次に生かしてくれればいい。
努力なしでは物事がうまく運ばないことに気づいてくれれば、3日間には意味があった。
そう思えることが、疲れとの正直なつきあい方だと、今はそう思っている。
→ まとめて読むなら|50代の体の整え方
