娘のスマホ漬けの夏休みを見て|50代が気づいた、余白を作るという技術
娘のスマホ漬けの夏休みを見ながら
夏休み、娘はずっとスマホを触っている。
SNSやYouTube、完全に受け身の情報消費に時間を費やしている。
娯楽には使っていても、自分のために何かを積み上げている様子はない。
正直、親としては将来が不安になる瞬間がある。
それでも、あえて何も言わない。
理由がある。
自分自身、親から似たようなことを何度か言われた記憶がある。
でも当時は、ピンとくるどころか、正直鬱陶しいとしか思わなかった。
今振り返っても、あの頃の自分に何を言われたところで、たぶん響かなかっただろう。
だから、言っても仕方がない。
自分で気づく以外に、道はないのだと思う。
自分磨きというか、自分から発信して動けるようになることに、自分自身で気づけるかどうか——それが、これからの彼女の人生に必要なことだと思うから。
今はただ、静かに見守っている。
そう思えるのは、同じように時間を持て余していた高校時代の自分を、今でも覚えているからでもある。
高校時代は、「もったいない」なんて思わなかった
高校生の頃、長期休みはとにかく流されるように過ごしていた。
特に何をするでもなく、時間を持て余すことに罪悪感なんてなかった。
普段は勉強も部活もあったから、休みくらいはそれでいいと思えた。
今振り返ると、あの頃は完全に受け身だった。
自分から「これがしたい」と発信することがなく、言われたことをやる、求められたことをこなす。
それだけで一日が過ぎていった。
だからこそ、余白の時間を「無駄にしている」と測る物差し自体が、そもそも自分の中に存在しなかったのだと思う。
社会人になってからは、「リカバリー」という言い訳があった
社会人になり、仕事が生活の中心になってからは、事情が変わった。
仕事のストレス、住宅ローン、教育費、老後資金——生活を支える不安との戦いのような日々だった。
その頃の余白は、「仕事のためのリカバリー」という名目でようやく持てるものだった。
何もしない時間があっても、それが次の仕事への英気を養うためだと思えれば、罪悪感なく過ごせた。
やる気が出ない日も、「仕事で疲れているから」で説明がついた。
受け身ではなくなっていたが、今度はお金と生活不安に向き合わされる形での、別の種類の縛りがあった。
対象が、お金から時間に変わっただけかもしれない
今は違う。
仕事・家族・自分という3軸を、自分の意志で設計するようになった。
リカバリーという言い訳がいらなくなった代わりに、今度は全部の時間に「価値があるかどうか」という物差しがついて回るようになった。
厚みのある一日を過ごせた時は満足度が高い。
でも、そうでない日は、なんとなく足りない気がしてしまう。
忙しくなったわけではない。
測る基準を、自分で作ってしまっただけだ。
ふと思う。
これは、かつてお金と生活不安を最優先にしていた構造と、実は同じなのではないか。
最大化しようとする対象が、お金から時間に変わっただけで、「何かを最大化しようとする」という構造そのものは、変わっていないのかもしれない。
余白の使い方が、まだ下手なのかもしれない
余白と言っても、それはあくまでスケジュールという枠組みの中で生まれたものにすぎない。
本当の余白の価値を、自分はまだ知らないのかもしれない。
時間をうまく使うことが、本当にうまく使っているとは限らない。
効率よく埋めることと、豊かに過ごすことは、別の話のはずだ。
余白というのは、たぶん心の余裕のことでもあると思う。
成果を求めすぎない時間、長い目で物事を見られる時間、生き急がずに、時には立ち止まっていい時間。
人生の後半から終盤に向かっていく中で、その余裕を持てるかどうかが問われている気がする。
時間と余白をうまくブレンドできれば、相乗効果でもっと良い人生を送れるのではないか。
そのバランスを模索し、余白を作る技術を磨いていくことも、50代の大切な仕事なのだと思う。
余白を作る技術をこの年代でどう身につけていくか——それも突き詰めれば、考えすぎて疲れる理由の整理(思考#37・ハブ記事)と同じ延長線上にある気がする。
